JOURNAL 02
課題先進都市北九州市
2024.02.06
北九州市は「環境モデル都市」であり「環境未来都市」であり「SDGs未来都市」に選定されています。再生可能エネルギーの導入を中心とした環境と経済の統合的発展を目指している、環境都市です。日本だけでなく、世界がこれから直面する課題に他都市に先駆けて取組んでいます。

今でこそ環境都市として名高い北九州ですが、多くの人の中では、工業中心の都市で、汚れた海と川と、濁った空気のイメージがあるのではないでしょうか。
前記時でも紹介しましたが、北九州市は人口100万人を超える政令指定都市として誕生しました。県庁所在都市あるいは三大都市圏以外では初の政令指定都市でした。高度経済成長下での急激な工業化は深刻な公害問題をもたらしました。スモッグや水質汚染等の工場由来の公害問題に悩まされましたが、公害を克服していくことで、環境への取り組みを地域の個性として伸ばし、環境と経済の統合的発展を地域で率先してきました。
公害を克服した技術やノウハウを活かして環境分野での国際協力を展開し、さらにリサイクル産業を集めたエコタウンを整備しており、環境都市としての地位を確立しています。
インドの環境・インフラ開発最大手、ラムキーグループが北九州市との連携協定を締結し、日本法人を北九州市内に設立し、環境関連の中小企業やスタートアップに総額1億ドルを投資するというニュースが流れたのも記憶に新しいところです。北九州の企業や行政が培ったリサイクルなどの技術をアジアに展開し、インドでリサイクル団地を整備するそうです。高度成長期に環境汚染を克服した『北九州モデル』の経験と手法が、世界のモデルケースになっています。

では、工業都市であり公害の街であった北九州市は、いつから環境都市と呼ばれるようになったのでしょうか。そのきっかけとなった北九州市の公害対策は、1960年代に大気汚染に反対する市民(特に婦人)が立ち上がったことが発端になりました。「青空がほしい」運動という名前で知られているその運動ですが、その足跡を記念して中原市民センターにレリーフが残されています。中原市民センターは移転されましたが、このレリーフはさらに目立つ場所に移転されています。

北九州工業地帯を救うための発電所が地域の人々の健康を脅かし、北九州をけん引する製鉄所が畳を黒く染めていました。夫も子も製鉄所で働いている中ですので、人間関係の難しいケースもあったことでしょう。その心労は、今の私たちが推し量ることすら難しいと思います。しかし「夫や子どもの健康には変えられない」と運動が進んでいきました。
戦後わずか5年の1950年に、中原地区の婦人会が発電所の降灰問題を調査し改善へと向かいました。三六地区の公害学習が状況をけん引しました。1965年からの「青空がほしい」運動は戸畑全域カバーする戸畑区婦人協議会へと引き継がれました。それが実現した背景には、戸畑の教育に対する意識が高かったという点もあったと言われています。

また、昭和30年頃、牧山東地区を流れる天籟寺川は、生ごみを夜間に捨てたり、乳白色の水が1時間近くかけて流れてきたりと、異臭も漂う川でした。工場が並ぶ中、様々な排水が川に流れ込んでいました。地域の方々が長く努力を続け、魚や水鳥などの生き物が集まる川に生まれ変わりました。今では、光の川として多くの人々が集う川として愛されています。

今、北九州が環境都市として世界に注目されている。その始まりは企業ではなく、その地域に住む人たちの力です。SDGsという言葉も当たり前の概念になりつつありますが、そのような言葉が生まれる遥か前から、北九州市民は持続可能な開発を続けて来ていたのです。
これからも私たちがこのまちでビジネスを続けるときには、偉大な先人たちがこの街にいたことを思い出すことで、新たな一歩を踏み出す勇気をもらえるのではないでしょうか。この物語こそが、今、子どもたちに伝えていくべき物語です。
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